猊鼻渓と明治の文豪田山花袋の紀行文(その7)

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猊鼻渓
鍛冶屋があったり、白い青いペンキ塗のけばけばしい医者の洋館があったり、三階づくりの構えだけ 大きくって、中では養蚕でもやっているような旅舎があったりするような宿駅が。または怠惰(たいだ)と退歩と 衰頽(すいたい)のみが常にあたりに渦を巻いているような宿駅が。しかし、そうした宿駅でも、軽薄は、おつちょこ ちょいな、新聞の町の気分よりはいくらか好い印象を私に与えた。私達は町の右側の三階の旅館に 入って行った。
 「そうけぇ、獅子ケ鼻を見に来さしたのけぇ。よく来さしった。あつかったべや。」
  流石(さすが)に村の誇りとしている名所を遠くからわざわざ見に来て呉れたのかという感謝の情が、それとなく その主婦の訛りの言葉にあらわれていて、いかにも田舎らしい好い感じを私は受けた。
  三階の一間に腰を落付けた私は、とても今日は平泉までは帰ることは出来ないと思った。わずかに五里 の路に、こんなに疲れて了った。それというのも矢張昨夜夜十分に寝なかったため、また朝飯を()られなかった ためであろう。「もう、今日は駄目だな、歩けないな。泊まることにしよう、今夜は此処に・・」 こう私は言って、先んず氷と白砂糖と水と取寄せて、それをコップについで何杯もガブガブ飲んだ。
  主婦はまた入って来た。「何んせ、今日は泊まりだんべや、それなら、ゆっくらして、日陰が出来てから、 鼻さ、行くが好いか・・・。なァ、そうすべやな。その頃までに、船頭に来いって言って置くべいやな。」
こう早口に言って、ひとりで飲み込んで、さっさと下に下りて行って(しま)った。男の児達は不思議そう
※怠惰・・・なまけてだらしない ※本文の漢字カナについて