猊鼻渓と明治の文豪田山花袋の紀行文(その16)

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猊鼻渓
 「さァ。」私は考えた。「渓としての性質が違いますね。厳美渓も煎じつめれば、矢張同じく、 深潭と岩石とにあるのですけれど、その形や状態が丸で違いますからな。厳美渓は(むし)ろ、木曽の寝覚 とか美濃も土岐川とかに似ているんですけれど、猊鼻渓はあゝした深潭や岩石とは全く趣きを異にしてい ます。勿論、厳美渓は平泉に近く、交通も便利で、おまけに街道筋に当たっていますから、誰でもそこを 通るものはひとり手に見るというようになっています。しかし猊鼻渓の方は、全く交通路から離れて、 山中に深く(かく)されたという形になっているので、何しても、行って目を(ぐう)するものがすくな(すくな)いという形です。 私の好みから言うと、厳美渓なんか、とてもその敵ではありませんな。ぐっと猊鼻渓の方がすぐれていると思いますな。」
  今でもそこだけ切放したように、その渓谷の印象が鮮やかに長く私の頭に残った。
※蔵・・・おさめる ※寓・・・仮に身を寄せる ※本文の漢字カナについて