猊鼻渓と明治の文豪田山花袋の紀行文(その15)

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猊鼻渓
     五
  私は東京へ帰って来てから、いろいろな人に話した。
 「そうですね、わざわざ行って見るとすると、ちょっと失望するかも知れませんね。しかし特色のある 渓谷には渓谷です。見ように由り、考えように由っては、非常に印象的な忘れ難い渓だと思います。 それに、平凡は平凡だと言っても、長坂の宿駅は古風で好いと思います。夏の夜は虫が多く灯に集ま って来るので、薄暮になると、いつも通りのところどころに(わら)を積んで、それに一時火をつけて、虫を そこに寄せるようにしますが、そのもやし火 さびしい闇の夜の田舎町に、ところどころその火がぽっかり 燃え上っているさまは、何とも言えませんでした。非常にロマンチックなものか何かでも見たような 気がしました。それに面白いのは、何処の家でも、大抵はランプは外して吊るして、そこに虫を寄せて 家の人達はその奥の暗いところで食事なんかしていることです。ラスチックと言っても、関東や中国 あたりで見ることの出来るラスチックとは味が違います。出来るなら、その路を三陸の海岸までずっと 歩いて見ると、一層面白い趣味であるけれど、それは容易ではありませんから・・・」
 「厳美渓 そら、平泉の傍にある厳美渓と何方(どっち)が好い御座んす?」
  こうある人は私に(たず)ねた。
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