猊鼻渓と明治の文豪田山花袋の紀行文(その11)

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猊鼻渓
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が、渓の屈曲するにつれて、次第にその前に展られて来たからである。成るほど水はそう美しくは ない。とても紀州の瀞八町(どろうはっちょう)に見るようにあの玲瓏透徹(れいろうとうてつ)を望むことは出来ない。しかし(たん)はそこに深い ところもあるらしく、しんとして丸で別天地のように静まり返っているのを私は認めた。
 「はゝァ、面白い山水だね!」暫くしてから、私は誰に言うともなく言った。
  舟は静かに屈曲した渓潭を右に、また左に迂回して、一景は一景を(はら)み、一岩は一岩を生じ、 一曲は一曲を開くというふうに、(ゆる)やかに且つ滑らかに竿に従って動いて行った。
 「ホウ!」
  こう私は驚きの声を立てた。
  見よ、そこには天に参するばかりの奇岩 他に何処にこうした奇岩を発見することが出来るであろうと思われるような奇岩が(あか)ちゃけた土に形の面白い松の矮樹(わいじゅ)を載せて真直ぐに水中に(そび)え立っているのである。 船頭は次第に両側にあらわれて来た岩の名を一々私に説明してきかせた。
  思いの他に、幽邃(ゆうすい)であり、また別天地らしい気分に富んで居り、またその岩石が思ひの他に奇をつくし、 怪をきわめているので、私は益々心を惹かれて行った。
  (どう)した連想か、私にはお伽噺(とぎばなし)にでも書いてあるような渓谷-思いがけない不思議な山の精、水の 精でも住んでいるような渓谷が思い出されて来た。こうして大勢伴だって来れば、そう無気味というほど
※玲瓏透徹・・・澄み渡る ※幽邃・・・奥深く静かなこと ※本文の漢字カナについて
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